2008年02月29日

からだをくにゃくにゃして

昨日はとてもたのしかった! なんだかうれしかったな。
こんにちは、uedaです。
他館の方と飲める機会がありまして、たっぷりお話がすることができました。
企画していただいてありがとうございました。
たいへん充実した時間でした。(いや、まだ足りない)
いまや京都は劇場も少ないので、ああいった場は貴重で勉強になります。
ぜひまた行きましょう。

今朝、『Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!』を見にいく。
滑り込みで間に合った。
いまかなりメジャー作品がロードショーを逃すと劇場で見れないことに気付く。
単館系も見るべき作品がたくさんあって、小粒なのほど見逃すまいとあくせくしていたが、
メジャーは、特に洋画は何ヶ月後にDVD化が大きな口を開けて待っているので
ロードショーを逃すと、あとがない。
単館系、特に話題作や評価が高い作品はわりと長い期間ぐるぐるといろんな劇場を回っているのでスパン長めで見れるチャンスはまだある。
というわけで、『Mr.ビーン』はなんとか間に合った。
どうしてこれほどまでビーンかと言うと、これが引っ掛かり所が多いにある。
ジャック・タチねたは大いに話題に上がってるかもしれないが、それも楽しめる。
なんせ原題は「Mr.Bean's Holiday」である。ビーンの休暇ね。
Vacancesではない。
劇中、Playtimeという映画も出てくる。もちろん、ビーンによってカットされる。
よって、カンヌで観客に完全に届かないゆえ、完成はしない。未完。
いつ陽の目を見るやら。そして、これまたウィレム・デフォーが大監督の役で出てくるのがとてもいい。ああいう胡散臭い役は彼の専売特許だ。
映画というのは受け手がいる以上、作家のみでは存在しえない。それは芸術一般を指すかもしれないが、映画は脆弱な存在であることを喜劇的な身体性によって思い知らされる。
自分の映画をむちゃくちゃにされたデフォーが苦し紛れに
「これまでに試されてきたことではあるが、映画はビデオと融合する」と観客の前で口にする。
大舞台で観客によっておおいに受け入れられたビデオによって映画は「破壊」されたのである。しかし、デフォーはその「破壊行為」をも受け入れる(観客を前に受け入れざるをえない)。開き直ったのか、ビーンのデタラメによって神経をほぐされたのか、ビーチでビデオカメラを遊びながら、振り回すようにRECする。
ビーンが追求する喜劇的身体性は「映画」に何をもたらしたのだろう。
おそらく、「思考の排除」である。
ビデオカメラを振り回し、なんでもテキトーに撮りまくるビーンの映画的「破壊行為」の濫用は逆説的に映画を古典に立ち返らせる。
ビーンは無造作に与えられたカメラによって撮影された映像を何も信じていないし、何の構築も成し得ない。
『ラスト、コーション』でも発せられた「演劇は現実だ」というセリフを思い出す。
ここでは当時、芸術も政治なのだという意味だと思うが、(芸術の実存的脆さでもある)
ビーンのビデオ映像により映画は一気に現実を呼び戻す。
彼が見せるのは自身の身体の動きだけだ。だから、フランス語は話せない、という設定のもとにあまり意味的に言語を用いない。
画面に映し出された美しい風景と身体のみで映画を構成する試み。
あえて、またここに来て。
だが、そのかつての映画の魅力を信じてやまないのだろう。
ローワン・アトキンソンは思考と研究と熟練の技でこれを実現していると思うとそれはじつにおそろしい。
映画は回帰する。こんなところで。
  
Posted by チーム☆シネラリーベ at 22:37Comments(0)TrackBack(0)【映画+α】

2008年02月28日

京都の中心で田舎を叫ぶ

今回は田舎の話をしましょう。

最近、田舎ブームらしく、老後には田舎に移り住みましょうなんて企画をよりによって役場が組んだりするそうです。うちの友達にも「田舎に住みたい」という子がいます。
でも、分からない。どうして高いお金を払ってわざわざ田舎にいくのでしょうか。
確かに空気はきれい、水もきれい、空も広い、自分で農園とかできちゃうかもしれない、ですがおそらくそれは憶測でしかないと思います。
田舎の不便さを挙げるときりがないのに、田舎のいいところは先に挙げたことくらいでそれ以上でもそれ以下でもないはずです。日本にある幾千の村落はすでに見捨てられ、交通体系はより貧弱になり、田畑は継ぎ手がおらず荒廃し弔鐘を聞くばかりなのに、幻想片手に入り込んであなた方に一体何が出来るのか、それを問いたい。
都市や都会は無条件で人を受け入れますが、田舎はそうではありません。「私にここでなにが出来るのか」その答えを見つけられたときに初めて、田舎は新参者を受け入れてくれるはずです。

今一度、「田舎に住みたい」という人々には、『おもひでぽろぽろ』でも観ていただいて再考を促したく思います。『天然コケッコー』じゃだめですよ、夏帆のかわいさも相まって田舎の姿がぼやけてしまいますから。

Mom  
Posted by チーム☆シネラリーベ at 21:45Comments(0)TrackBack(0)【スタッフの気まぐれ日記】

2008年02月27日

私を手記につれてって

もうじき3月で早すぎる。それにしても、寒い。
毎日毎日寒すぎる。夜中寒くて何度か目がさめる。
段ボールというやつはひどく保温性があるときいたことがある。
本当なのか、夏テントで試してみたことがある。
下に敷いてみた。その上に寝袋で寝た。朝起きると汗でびしょびしょになって起きた。
だから、効果はわからない。暖かかったかもしれないし、単に寝袋が暑かったのかもしれない。
どちらにせよ、何とか暖かさの象徴として僕は段ボールを思い描いた。なんでだろ。
空腹時には、固くなったおにぎりを想う。
段ボールはきっと厚ければ厚いほどよい。固ければ固いほどよい。
だから、職場に無造作にあった固段ボールを捨ててもよいが、捨てれずにいた。
場内は暖かいのに映画館のフロアが恐ろしく寒い。固段ボール見てるだけで暖まる。
毎夜、いつでも雪が降ってもよいほど、空気はきんきんに冷えてスタンバっている。
人間には冷たいが、雪には優しい外気なのだ。
なんといっても、夜は寒くて寝れない。
はあ、寝たかと思うとたった2時間しか経過してない。肩がきんきんに冷たくなっている。
トイレ。昔は夜中にトイレなど必要なかった。
水。喉がカラカラで水を飲まずにはいられない。朝の5時に水道をひねる。気泡で白濁した水をコップ一杯に注ぐ。夜中に水分を補給せねばならぬことなど、これまでそんなになかった。放っておくと持ち前の扁桃腺が朝腫れるので飲む。
再度、睡眠を試みる。
やっとの思いで眠れたかと思うと、またすぐに起床時間。
毎日聞いている無機質な携帯のアラーム音を忘れそうである。
何時に床に入ったかを必死で思い出そうとする、が思い出せず記憶を失う。
人から段ボールを奪っている夢をみる。
段ボールで家を建てようと試みるが、段ボールをかき集めてもかき集めても量が増えない。
隣の人とケンカになる。隣の老人とおそらくケンカになる。
段ボール。あまりにも数が多いので、少し数を減らします。
放送が入る。FMラヂオのようなアナウンス。どこかで聞いたフレーズ。
「そうか、だからどんなにかき集めても増えないのか」と容易く納得。
ケンカした老人に白桃味のグミをあげて、容易く仲直り。
という、夢をみる。
寒さのあまりろくな夢をみない。
毎日毎日寒すぎる。夜中寒くて何度か目がさめる。
段ボールというやつはひどく保温性があるときいたことがある。

       weda,  
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2008年02月25日

笑いがとまらない3

前にもここで書いたことがある「空飛ぶモンティ・パイソン日本語吹き替えDVD BOX」が届いた!やったー!
こんにちは、uedaです。
とうとうきました。
吹き替え声優陣が広川太一郎、青野武、近石真介、山田康雄と錚々たるメンツ!
今じゃこんなのありえない!山田氏もおられない。
このモンティ・パイソン、そんな声優陣が超本気だ。
僕なんかかつてこれほどまで声優がいいと思ったことがない。
なんか、字幕よりずっとコントの感じが出てる!
モンティ・パイソン感が出てる! かつてテレビで見てきた人でも、これは改めて必見だ。
そいえば、ちょうどSPA!の今のやつに中原昌也がこのBOXを紹介してた!
もんちー。Amazonで予約して、先日届いたけど代引きで持ち金がなく、一旦持って帰ってもらうという恥ずかしいことをして、改めてようやく届いた。
今なら定価より8千円ほども安く買えるのだ。

あ、いま目の前でモリモットが全力で買ってきたてのスタバのコーヒを自分のだけ全こぼしした。わはは.........「うわあ、さいあくや」をつぶやく。
リリー・フランキーのつぶやき全集に即収録される。
他の人のコーヒは無事なのに、使いに出た自分の分だけをカラにするという快挙!
まったくのから。
かわいそうで同情したので、コーヒを一口もあげない。
当の本人は、ただちに某メーカーの自販機でお好み焼き味の缶コーヒを買いなおす。
しかもアイス。(まちがって、)
何だか本当に同情してきたので、温かい買ってきてもらったスタバのコーヒを一口もあげない。
「あんたはこの缶コーヒと同じだ!」と、意味のわからないことを言われる。
本人の前であたたかいコーヒを飲むのも気がひけるので、僕は全力で彼女の前でコーヒをいただいた。
「ああ、なんかさいあくやわー」を連呼する。
「もう人のコーヒは買ってこんとこ」
わけのわからない学習をしはじめた。天然森もっと通信。
それにしても、こんなタイムリーに..。
  
Posted by チーム☆シネラリーベ at 21:27Comments(0)TrackBack(0)【スタッフの気まぐれ日記】

2008年02月24日

気がきいてるよ!

本日はアカデミー賞!、らしいです。
学生の頃、映画を右も左もわからず、BSで録った授賞式を見て「こんな映画があるのか、これから公開されるのか」と熱心に覚えていた。
そして、あのプレゼンターのスピーチ。なかなか気の利いたことを言う。
どうしてアメリカ人は気の利いたようなジョークを言わにゃならんのだろう、
ユーモア強迫シンドロームであろうかと本気で心配した。
余計なお世話だと思うが..。
気の利いたようなジョークをいちいち披露されるたびに、こっちも気の利いたように笑わないといけない、という「気の利いた」やりとりの空間を「気の利いた」ふうに作り出さねばならない。
そんな「気の利いた」やりとりはかつてこの国の文化になかった。
「あ、お茶。」「はいはい」
「あ、そこのそれを、ちょっと。」「これね」
シンプルで禁欲的だ。
余計な装飾を排除した試みがみられる。
限りなく「あ、うん」を求めている。
では、この「あ、うん」のコキュニケーションはどうか。
これは、またちがった意味で非常に気が利いている。無駄がない。
伝達の合理性がある。
そして、何より日本人が美徳とする「言わずともわかるであろう何か」が余白に存在する。
あげくには「いや、むしろわかってほしい何か」が感じられる。
骨だけが存在する。
アメリカのように言葉の装飾で遊ぶそれはないが、骨のみでコミュニケーションをはかる。
コミュニケーションでなく、コキュニケーションはやはり洗練によるものだろう。
だって、知らない初めての人に「あ、それ」と言っても何も通じない。
「またいつもの、たのむね」となっても、相手は「???」となる。
馴れない相手にコキュニケーションはやはり酷である。
そこは向こうのようにサービスを振るわないと。他人はすべてお客様、とまでの過剰な態度。
サービスというやつはある種の過剰さが求められるのではないか。
相手がほっこり安心する庶民的な提供。

以前、京都駅からタクシーで帰ろうとして、小型タクシーに乗り込んだ。
地名を言って行き先を伝えると、車は発車し運転手は何通りかのルートを説明した。
僕は特に指定するつもりもなかったが、適当に「〜通りからでいいですよ」と伝えた。
内心、「そっちはプロなんだから、適当に早く着きそうなルートを時間帯と混み具合を察知して適当に行ってよ。道あんま詳しくないこっちに選択を委ねないでよ」と思ったが、
運転手は運転手で、もしことわりなしに勝手に判断して行くと、あとで混んでたりするとわざと稼いでいるのでないかと客に邪推されるのも気が引けるので、とりあえず一言ことわりのつもりで「あなたのおっしゃった通りのことを遂行しているだけですよ、」という保険のためにこちらに選択させたのだな、と僕は推測して、この一見、とても「気の利いた」とは見えないやりとりを飲んだ。
これも「あ、うん」のやりとりだな。と、いうつもりで。
運転手は気の良い方で、乗り込んだ僕にしきりに話しかける。
「(僕が伝えた行き先をさして)そこの角に、宝くじの販売所あるでしょ。あそこから当てた人が出てましたねー」「そうですか、」
「1等ですよ!なんか大きく1等が出たと書いてましたわ」
「はあ」
「いや、私もね、よくやるんですがなかなか出やせんですよ。ま、私はロト6って、あの好きな数字6桁いれるだけのあれですがね、職場の仲間と何人かでやるんですよ。そりゃあ、出たためしがありません」
僕は宝くじもLOTO6も買ったことがないので、そういう話題はほとんど日頃から耳にすることはないが、少しその話を聞いていた。
その日の大雪が理由であっただけでなく疲れていたこともあってタクシーを利用した。
でも、あまりに気分よく運転手が話すので、相槌はやめずに打つ。
「でね、1等てのも何人もいるんですわ。6等なんて10万人はいるんですよ。そこから配当になりますからね。だから、額でいえば大したことないんですがね」
あまりにその話題が続くのでここらで、分からないなりに少しは話しに入らないと悪いと思って、僕は思いきって参加した。
「それって、いくらくらいなんですか?」
・・・・・・・・・
「いや〜、不思議なもんでっさ。それでもそんな6等ですらアタりゃしない。LOTOもね、外国じゃ8桁なんだって。6桁じゃ当たりすぎるってんで。それじゃロト8だ。がはは。」
...流された。
「私なんかもう10年はやってますがね、当たる気配もない」
ファンタスティックなほど美しく流されたがどうしよう。
黙ってきいてろ、ということなのか。それとも、聞こえなかったのか。
質問が悪かったのか、そりゃ急に「いくらですか」はない。そんな質問は上級編すぎる。
くじに縁のない人間がいきなり「いくら」はないぞ。
いやいや、聞こえなかったに違いない。ただ、聞こえなかったのだ。大丈夫だ。
「あの〜それっていくらなんですか?」また、繰り返してしまった。
・・・・・・・・
「何が?」
くわ。タメ口である。
「いや、その、ろとしっくすは、いくらくらいかな」
「外国ですか?」
「いや、日本のロト6は。」
「あんなのは別に高かないですよ」
「外国はね....」何気にかわされた。外国のなんて知らないよ。きいてないさ。
もう、どうでもよくなってきた。
勝手に思う存分話すがいいさ。これ以上口出しはしないさ。
相槌が弱くなったせいか向こうも話に「間」が多くなってきた。
「私のような独り身の身寄りのない人間はそこの社宅の寮のようなとこで世話になるんですわ。皆こういうのがいるんですがね、その中に、わしは身寄りなんていらん、一生一人でええんやって言ってた人がね、いきなり宝くじで大金手にしたもんだから、いろんなとこから親族が出てきてね。困ったもんですわ。ずっと雲隠れしてた弟に2千万与えたって。弟が一生その人の面倒みるっつって。私は彼にそんなの言いふらしちゃ危ないよ、って言ったんですがね。なんだか急に身寄りが増えたもんだから彼、喜んじゃって。」
僕が思わず「そんなことあるんですか!」と声あげて反応したので、
運転手は意気揚々と得意気に話し出す。
先ほどまで黄色信号でも60キロを超すスピードで切り抜けていたのに、目的地を見えてきたあたりから、急に30キロでゆるゆる走行しだした。
運転手のテンションはますます上がり、「で、その彼がね..」タクシーがうちの前に到着しても料金を受け取りながら、続けた。ちょっとドアを開けてくれない時間があった。
「では、また!」最後に彼はそう言った。
もう...会わないよ、だって俺らタクシーやん。

気はいいんだけど、もうちょっと気を利かせておくれよ。

        ueda  
Posted by チーム☆シネラリーベ at 16:56Comments(0)TrackBack(0)【スタッフの気まぐれ日記】

2008年02月24日

電シャニ∞

1分間に35回。

鼻をスンッとすすった回数です。
電車で横に座ったおじさんが1分間に35回鼻をスンスンいわせるのが気になって寝られませんでした。
スン、ススン、スン…∞。そのおじさんは茨木から烏丸まで乗っていたので25分くらいでしょうか。約875回スンスンを聞いていたので、さすがにイライラしました。

癖なのでしょうが、なんと人を不愉快にさせる癖なのだろうと思うと同時に、自分も知らず知らずのうちに人を不愉快にさせている事があるかもしれないなと思ったのです。
映画をみるときじっとしてみていられません。いごいご、いごいご動いてしまいます。やはり周囲の人はじっとしろや!と思っているのでしょうか?。
口が開いています。
「中学の時からお前の口が閉じたところをみたことがない」
とこの間、同級生の男の子に言われました。
やべぇ、吸い込まれる!開かれた私の口の中に彼は何をみたのでしょうか?
口が開いている人はアホに見えるから、一緒にいると俺までアホと思われるということでしょうか?だから閉じろということでしょうか?
慢性鼻炎がそうさせるのです。といいわけをしておきます。
無意識にそうしてしまう。
映画をみる癖。
気がついたら映画を見ていた。
なにかポップコーン的なものを片手に暗い場所に座っていた。
というようなことが起こったら、もうそれは病気でしょうか?
だけど、少しだけそういう風になってみるのも面白いかなと思ったのでした。  
Posted by チーム☆シネラリーベ at 11:58Comments(0)TrackBack(0)【1chが行く!】

2008年02月23日

毛が伸びてきた。

白髪三千丈。
「しらが、さんぜんじょう」ではない。「はくはつ、さんぜんじょう」と読む。
本を読んでいたらこの言葉が出てきて気になったのでwikiでみてみた。

「縁愁似箇長(うれいによりてかくのごとくながし)」と続き、通常、「積もる愁いに伸びた白髪の長さは、三千丈(約9キロメートル)もあるかのように思われる」と解釈されているが、日本においては、この一句のみを取り出し、極端な誇張表現の例としたり、あるいは中国人の誇張癖を象徴するものとして(一種の冗談として)引用することもある。【ウィキペディアから引用】

まぁ、こういうことらしい。
9キロも毛が伸びるわけないよ。ありえねぇよ。…本当に?
ということで、さらに調べてみた。大体1月約1cm、1年で12cmくらい伸びたとする。9km伸ばすには生まれたときから一度も髪を切らないとして750年伸ばさないといけない。髪の毛環境のものすごいいい人で、1年20cm伸びたと仮定しても450年かかる。750年が450年になったところで、もうそれは人間の寿命的に言ってムリである。
まぁ9キロは現実問題さすがにムリとは思っていたけど…。
さて、ここからナゾは深まる。
髪の毛の長さ5m15cmのギネス記録があるという。
この人は単純に考えて、42年と6ヶ月毛を切ってない。甘く見積もって1年に20cm伸びる人だとしたら25年と6ヶ月毛を伸ばしているということになる。
なんだ、なんとかなるものなのだね。
なんの特技も持ってない私もギネスに40年近く毛を切らなければ、ギネスに載れる可能性があるという希望がみえたのである。
ところがである。また問題発生だ!
人の頭髪の生え替わりサイクルというものがあって、それは男性で2〜5年、女性で2〜6年ということらしい。
甘く、甘〜く見積もっても20年で毛が生え替わる人だったとしても、5m15cmに到達するまでにぬけてしまうのでは?
もう接着剤かなにかで頭皮にくっつけちゃっているのではないだろうか?
長い髪の毛が絡み合っているだけで、本当は途中で合体しているのでは?
ってなことが気になりだし、スタッフのみんなに「あのね、髪の毛って1年に12㎝のびるとして、5年で生え替わって…」「あのね、髪の毛って…」「あのね、髪の…」「髪って…」っと言っていたら、「髪の毛、髪の毛ってなんでそんなに気になるの?」と言われた。
ホントそうですよね。
なんで、気になるか分かりませんが、気になっちゃったんだもの。
仕方ねぇよ。
毛を切らなかったらギネスに載れる可能性ってのは、毛を伸ばし続ける才能ってのがありきでの話なんだね。
ということに気付けた。

グレート義太夫も伸ばしていたよ
あ〜明日はアカデミー賞の日だぁ。  
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2008年02月22日

映画の極地

気温はまだ低いですが少しずつ春の匂いを感じますね。
うれしい春ですが、花粉症の方にとっては憂鬱の季節です。
僕も年々その傾向がひどくなってきております。
こんにちは、uedaです。

お天気キャスターのような挨拶ではじまりました。
しかし季節の変わり目だからか、かなり睡眠時間が長いです。
この頃、確実に7時間は寝てます。
エディソン・チャンのように寝まくりです。
いや〜、あんなにロックんロ〜リンな人だったなんて。
モトリー・クルーのトミー・リーもびっくり!
袋とじのカッティングが趣味と特技である、1chの「オープニング」でスタッフ皆も一気にチャンのファンになる。
これは見直したな。ダパンプの後ろ側にいそうな爽やかな俳優だと映画を見る度に思ってたんだけど。
とてもチャーミングな奴だったのでした。自分が大好きでなにかと記念に残しておきたい人。
女性に対するサービスが過剰であったゆえのあれです。
友人にチャンのファンの人がいたけど、すごく先見の明があったんだなあ、僕ら凡人には気付かないチャンの魅力に気付いていた。
引退とか言わず、ぜひともがんばってもらいたい。
そもそもスターはそういうのが商売なんだから。これを乗り切ったら、絶対に化けるはず。
どれだけ映画やドラマに出演しても退屈なイケメン俳優なんて、うんといるんだから。

ところで昨日、日活ロマンポルノを東梅田で見た。
小沼勝監督の『Mr.ジレンマン 色情狂い』
ベンガル、柄本明、高田純次、綾田俊樹など当時の劇団東京乾電池の面々が出演していた。
79年の作品だから、脚本の荒井晴彦もまだ駆け出しの頃である。
今見ると、お笑いでもあれくらいは何てことないかもしれないが、終始ナンセンスギャグのオンパレード!
時代的な笑いも含めて、興味深かった。おったまら〜げ〜音符なんてね。
ロマンポルノの本当に風通しのよい自由さは、うらやましくも感じる。
テレビ的なものもエロ的なものも、あらゆる自由さはこういったところに当時の時代の到来を予見させるし、作り手たちも本当に新しいことをやっている興奮でいっぱいだったのではないだろうか。

それから、滑り込みで話題の映画『国道20号線』を鑑賞。
大阪は九条まで見にいかないといけないほどの、未知なる期待と興奮であった。
DVでのプロジェクター上映であったが、16ミリフィルムで撮影された作品をテレシネ変換されての上映となった。
やはりデジタル撮影とは圧倒的に違う。
デジタル全盛の時代にどうしても、このように予算内でフィルム撮影にこだわる作家がいるということに小さな希望が見える。
というよりも、やはりこういうことをされると、何故あえてそこはヴィデオではなかったかということを考えざるを得ないし、それはその映画を見ればすぐにわかるのだ。
キレにキレている。
きれまくっているのだ。
どうしてこの映画が「いま」撮られなくてはならなかったかが見ればわかる。
この映画にテレビやドラマ、昨今の日本映画に安易に登場しそうな現代を象徴するような若者はいないし、シンナー片手にスゥハァする彼らはむしろ一見、時代錯誤に受け取られるであろう。
しかし、国道20号線沿いに装飾されたドンキホーテや例えばアコムやプロミスといった手頃な消費者金融、パチンコ店、カラオケボックスという殺伐とした風景が彼らにまとわりつく時、その彼らはとてつもなくリアルに「現代の」究極に冷たい風にさらされている。
カップルでぶかぶかのジャージを身に付け、寝る枕が大きなキティちゃんで、布団がヒョウ柄、家の金庫のように簡単にアコムで金を引き出し、ドンキホーテで買い物を済ませ、日夜パチンコとプレステに明け暮れる。
旧友に会ったと思いきや、ねずみ講商法(ミッキーマウス商法)に加担させられ、にっちもさっちも身動きがとれない。シャブではなく、やはりシンナーで飛ぶ。
なんの悪びれもせず、ただ現代の殺人的な速度に取り残されたまま彼らは追い込まれてゆく。
では、このスピードについていければこの時代を乗り切れ、勝ち組になれるのか。
それもまた違うし、そんな簡単なものではないだろう。
そもそも「勝ち組」なんて何だ!
この社会の構造そのものに疑いを持たずには、彼らの殺伐とした地平は明日はわれわれの地平となる。
彼らの姿は人ごとではなく、自分たちの姿でもあるし、運が良いか、悪いかのそんな紙一重の違いに見える。
この奇跡のような映画は資本主義の末期的な症状の一端を垣間見た瞬間がある。
とんでもないエッジが隠されている。
あの国道の景色が仮にデジタルヴィデオ撮影であったなら、また全然違った印象を与えたのではないか。
見る者をあの先鋭の極地にまで誘い込むことができたであろうか。

これは、収穫であった。
まわりの友人・知人たちもちゃっかりこの映画を見ていて、1chもセリフを真似て大満足だったようで、いろんな意味でこの映画がどの位置に立ち尽くすのか楽しみである。
かなり骨のある作品だ。
こういった映画を見ると、やはり数年前早咲きで鳴り物入りでデビューした山下敦弘監督なんかは、当時そういった時代を切り取る鋭さを感じることはなかったし、「天然コケッコー」や「松ヶ根」をみた今思うことは職人的資質を持った監督なのかもしれない。
という余談で終わる。  
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2008年02月22日

整体に行く道中で

シートに座って電車が発車するのを待っているとふいに、パタパタパタパチャン、パタパチャン、チャパチャンッ、と軽快なリズムが聞こえてきた。
どうやら誰かがホームでタップを踏んでいるらしい。しかしなかなかうまいではないか。私はそのタップの主を一目みたくなった。
だがしかし、ここは電車の中で、立ち上がって探す程の興味は持っているが、いかんせん周囲の目が気になる。この場所を動かずタップの主は見えないものか。座ったままガラス越しにホームをきょろきょろしてみるとベンチに座っている若者が足を動かしていた。彼だ!
一瞬踊った胸はすぐ平常に戻った。彼の足は止まったのにまだパタパチャンがなり続けていたのだ。彼ではなかったのだ。そしてその彼もそのタップの音に感化され足を動かしてしまっていたのだった。たがやはりこの位置からは見えないらしい。
あ〜。しかし、周囲の人はその軽快なタップを気に止めている様子は見受けられない。
聞こえる人が限定されてるのかしら?などと思っていたら電車は動き出した。  
Posted by チーム☆シネラリーベ at 14:47Comments(2)TrackBack(0)【1chが行く!】

2008年02月20日

色の繁殖

いま、コバルトブルーが流行です。(!) たぶん。
四条通りを歩いていたら、前から女の人が3人歩いてきて、ふと見ると3人ともコバルトブルーのスカートを穿いていた。
このような色はそう見るわけではないので、へんな印象を受け、制服か何かなのかなと思っていたら、その方たちは知り合いでもなさそうで、ぱっと散っていった。
ほんとにたまたま固まっていたのだ。
ゲームの「ぷよぷよ」だったら、偶然にもうっかりポワンとくっついて消滅してしまうところである。
そんな消滅寸前の3つのコバルトブルーをたまたま目についたばっかりに、なんだか無性に気になり始めて「なんか、へんだよなあ..」と思っていたら(3人のコバルトブルーさん、失礼なこと言ってすいません)、街のいたるところでコバルトブルーが目に入ってきた。
また、コバルトブルーのスカート。また、コバルトブルーのスカート。
コバルトブルーのマフラー。コバルトブルーのインナー。
服屋の店先にもおいてる。いろんな人が着てる。
こんなに5分ほどの間に、この色を見たのは初めてである。
ははん。これはきっと何かのキャンペーンなんだな、と思うことにし、それらの氾濫するコバルトブルーを見送ることにした。
いや、それでも氾濫は止まることはなかった。
高速道路のネオンのように刺すように目に入ってくる。

仮に誰かが、これを決めたとする。その彼をとりあえず「ザ・マン」とする。彼女でもよいが。
「よし、この春にむけてブルーでいこう!」「もう、おととしピンクはやったからな」
「ブルーということでいく」
「いや、ブルーだけでは弱い。コバルトブルーで」

ザ・マンはこの春の気分をそう伝えたのだ。
「これを各雑誌に伝えてくれ! あくまで私が決定したのだからな」
「いやあ、ブルーはいいよ。いやいや、コバルトブルー。明るくいかなくてはな。春だからな。ぱっと目を引くような」
それはありそうでなかったトレンドカラーになりそうだ、それでいきましょうと各媒体から多くの反響が。
「昨年のコレクションの反応がすごかったんだよ。コバルトブルー一色をモデルに纏わせたんだ。顔にペインティングまで。ゴダールがほら、60年代によくやっただろ。あれだよ、あの感覚を取り戻したいんだ。「色」で革命を起こしたいのだ、見た瞬間だれもがハッとする何かをね。昨年の「黒」はいけなかった。あんなのは色ではないからね。ファッションはパッションなんだ。人の心を惹きつける何かがないと。街中がコバルトブルーで溢れ返る。そうなると、これはもう革命だよ。その「色」で意志を、個々の革命の意志を表明するのだ。ヌーヴェルヴァーグというやつはそれをやろうとしたんだよ。「色」と「女性」で芸術または政治意識に革命を起こそうとしたんだ。考えただけでも素晴らしい世界だよ。」

かくしてザ・マンの野心と情熱は、世界中におろされた。
ここ日本でも漏れずにぱっと雑誌の見出しにコピーが打たれた。
「この春、モテ服はコバルトブルー!」「コバルトブルーで決まり」「春のコバルトブルー」「ひとつは持っておきたいコバルトブルー」「そんなコバルトとブルー、果てなき旅」

これから、春にむけてますますコバルトブルーは増殖するだろう。
「色」の革命は始まったばかりである。

        weda


  
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